秋葉原の通り魔無差別殺傷事件と歩行者天国

6月8日に秋葉原で起きた通り魔事件について、事件そのものやその後の様子に関しては
いろいろなニュースサイトや情報サイト(あとは、手段を選ばない無神経なマスコミ)によって
伝えられているのであえてここで詳細は書きません。
今回書きたいと思うのは事件の場となった「歩行者天国(以下、ホコ天)」についてです。



事件のあと、ホコ天そのものの是非も議論されているようです。
もっともそういった議論は今に始まったことでなく、以前からありましたが
今回の事件をきっかけに議論が再燃したといったところでしょうか。
この件に関しては、地元住民・地元電気屋街など・観光者それぞれの立場で
意見が割れているようです。ちなみに私個人の立場は3つ目であり、
それを前提とした上で個人的な意見を述べさせて頂きます。



以前、ホコ天でよく見られた路上ライブ・パフォーマンスは
遠方からたまにしか来られない秋葉原観光を楽しみに秋葉原へ遊びにきた私にとっては
とても楽しいものでした。
しかし、一部の人たちが起こしたエアガン乱射やアイドル下着露出といった度を過ぎた
出来事をきっかけとし(もちろんこれらだけが引き金とは言い切れませんが)取り締まりが
厳しくなり、路上ライブ・パフォーマンスは今では見られなくなりました。
ああいうものがあるから面白かったのに、今のホコ天は無味無臭でつまらなくなりました。
もはや「歩行者天国」ではなく単なる「歩行者通行用道路」です。



もともと路上ライブ・パフォーマンスは条例(?)で禁止だった、という主張も
あるでしょうが、ならばなぜ、以前までは現状を知りながら容認(?)し、度を過ぎてから
ようやく取り締まりを強化するようなことをするのでしょう?
「禁止されてるけど、ほとんど取り締まられないからやってもいい」とは言いませんが、
実際に厳しい取り締まりが無ければ、やっても問題ないと誤解を与えかねませんよ。
少し話しが脱線しましたが、つまりここで私が言いたいのは、「今まで容認していたくせに
今さら条例を盾にアレもダメ、コレもダメと取り締まるのは間違ってる。」ということです。
私が不満を感じるのは「単に路上ライブ・パフォーマンスが見られなくなった」ということ
もありますが、「ホコ天管理の一貫性の無さ」でもあります。
そういった管理の仕方をしたいのであれば、最初から条例で線引きをし、「ココまではOK、
ココからはダメ。」と決めるべきであったと思います。(明確な線引きというのは難しい
ものではありますが、無いよりは絶対マシです。)



そこへ今回の事件です。これをきっかけとし、秋葉原の治安面・イメージ面から廃止論が
あがる一方、ホコ天のメリット及び今回の事件との因果関係への疑問から存続論も
あがっています。
私個人としては、無味無臭でつまらなくなったホコ天などあっても無くてもどっちでもいい
ので、結果的に廃止されようが存続されようがどちらでもいいと思っています。
ただ気になるのは「結果」ではなく、そこへ行き着くまでの「理由・根拠」です。
上にも少し書きましたが、今回の事件とホコ天を短絡的に結び付ける事に疑問を投げかける
意見があります(多数意見か少数意見か分かりませんが)。私はその意見に賛成です。
確かに人が多いことで狙われた、という部分はありましたが、人が多く狙われやすいのは
何もホコ天に限った話ではありません。今回の事件の犯人が、たまたま秋葉原及びホコ天
ことをよく知っていたから狙われたのかもしれません。



狙われたその要因を「ホコ天」に集約し、さらにホコ天の廃止論に結び付ける考え方を
間違ってるとは言いません。ただ、甚だ疑問ではあります。
さらに言うなら、今回の事件をきっかけにホコ天廃止の意見を言っている人の中には、
(確証はありませんが)以前からのホコ天廃止論者で今回の事件で廃止論に拍車を
かけているだけの人もいる可能性だってあります。
先程も述べましたが、結果的にホコ天が廃止になろうが存続になろうがどちらでも私は
構いません。ただ、その結果に行き着いた経緯は納得できるものであってほしいと思っています。